日本人が変わらない限り、日本は変わらない
GDPの高さに反して、低い国民幸福度ランキング
【2021年】最新世界GDP(国内総生産)ランキング 2050年の予測も紹介
によれば、日本は2021年のGDPが世界第3位の経済大国です。地球上の全陸地に占める割合は世界第62位、たったの0.25%に過ぎない小さな島国が、それぞれ地球上の全陸地の6.5%を占める大国である米国・中国に次ぐ経済大国なのです。それだけ高いGDPがあれば、さぞや国民達は幸せな生活を送っているのかと思いきや…
【2021年】最新世界幸福度ランキング 日本の順位とその理由は?
このように、日本の世界幸福度ランキングは56位と、GDPに反して低くなっています。どうしてでしょうか?
それは、当然の事ながら人間の幸福度は裕福さだけではないからです。
記事によればランキングの調査方法は、主観的な幸福度に加え、「一人当たり国内総生産(GDP)」「社会保障制度などの社会的支援」「健康寿命」「人生の自由度」「他者への寛容さ」「国への信頼度」という6つの項目を加味しているとの事です。
「一人当たり国内総生産(GDP)」については先程挙げた通り、世界第3位です。また、健康寿命世界ランキング・国別順位(2021年版)によれば、「健康寿命」も男女ともに世界第1位の健康大国です。
にもかかわらずランキングがこれだけ低いという事は…すなわち残った「社会保障制度などの社会的支援」「人生の自由度」「他者への寛容さ」「国への信頼度」が相当に低いという事になるでしょう。
他国がどのようになっているかまでは分からない部分がありますが、「社会保障制度などの社会的支援」については国民皆保険、障害年金、生活保護といった制度があるだけに、それすらもない国よりはマシだと思いたいところです。しかし時折、人生の先行きなどを悲観して凶行に走ったり心中する事件が起きる事を考えれば、まだまだ足りないものがあるのではないでしょうか。
「人生の自由度」…日本人は、一般的に義務教育を終えた後も高校、大学と教育を受け、就活を経て新卒サラリーマンとして就職し、そのまま定年まで働き続けるベルトコンベヤー式の人生が一般的であるという概念に慣らされています。その枠にはまらない人や、ちょっと寄り道をしたり、一度でもドロップアウトした人を負け犬であるかのように蔑む傾向が強く、そうした社会性が新しいチャレンジをするための障壁となっています。
また、人生における究極の自由と言ってもいい「生死に関する自由」。これにおいては、日本は圧倒的に後れを取っています。世界幸福度ランキング上位20か国中、スイス、オランダ、ルクセンブルク、ニュージーランド、カナダ、アメリカ、ベルギーの7か国は「安楽死制度」を導入しています。病や高齢で苦痛を伴う末期状態となった時に、自分の意思で死を選択する事が出来るのです。さらにそのうちカナダ、ベルギーでは身体的苦痛だけではなく精神的苦痛を理由とした安楽死も認めています。
ここで言う安楽死とは、患者に致死性の薬物を注射するなどして死に至らせる、日本ではいわゆる「積極的安楽死」と呼ばれるものです。
これに反して日本では、苦痛を伴っており回復が見込めない患者に対する延命治療を中止し、自然に亡くなる事に任せる「消極的安楽死」、いわゆる尊厳死しか認められていません。延命治療を中止してもすぐに亡くなるわけではありませんから、それまでは麻酔などによる苦痛の緩和処置を続ける必要があります。
過去の調査によれば、日本人の約7割は、安楽死制度に賛成しています。それにもかかわらず日本の国会では議題にすら上がらない、タブーのように扱われています。
「他者への寛容さ」…記事によるとこれは、寄付やボランティア活動が非常に大きな要素となるとの事です。日本にはあまりこうした風習が根付いていません。街頭での寄付活動があっても素通りするか、酷ければ「そんなくだらない事するくらいならお前がバイトでもしてその金寄付しろよ」などと言うような人もいます。また、こうした活動を「偽善」と捉え馬鹿にする風潮がいつの間にか根付いています。それが余計に人々のこうした活動への参加に対する障壁となっています。
また、「他者への寛容さ」は、先に挙げた「人生の自由度」における、一般的なサラリーマン人生とは異なる生き方においても、それぞれ交差する部分が大きいのではないでしょうか。
「国への信頼度」…国民幸福度を語る上で、これは非常に大きな要素なのではないでしょうか。国民幸福度ランキング第1位のフィンランドの消費税率は、基本的に24%と世界的にも高いものです。日本では10%の消費税でも「消費税高すぎ」「無くせ、無くせ!」と声が上がっているのに、何故こんなに消費税の高い国が国民幸福度ランキング第1位なのでしょうか。
それはきっと、「納めた税金がしっかりと国民の生活のために使われている」と認識出来るからでしょう。フィンランドでは透明性のある政治を実現しており、富の再分配がスムーズにおこなわれる仕組みが整っています。
日本では税金の無駄遣いや不透明な支出が多く、富の再分配という税金の本来の目的が果たされていない事が国民の不満となって国への信頼度が低くなっています。
これらの項目の中でも、「国への信頼度」、これは最も重要な項目なのではないでしょうか。法律が決められるのは国会ですし、その法に沿って運営される国の在り方は、他の項目にも大きな影響を与えるはずです。
日本を変えたいならば、まず投票に行きましょう
日本の政権は、その歴史のほとんどを自民党に掌握されてきました。選挙が終わって政策が発表されれば、「誰だよ自民党に入れた奴」「自民党に入れた奴責任取れよ」などと自民党の悪口がネット上に溢れかえるのに、何故いつまでも日本では政権交代が起きないのでしょうか。
それは彼らが、「投票に行っていないから」です。2021年10月に行われた第49回衆議院議員総選挙の投票率は、わずか55.93%でした。これはすなわち、国民の半分近くが投票権を放棄しているという事です。これでは政権が変わる事は絶対にありえません。何故なら、わざわざ投票に行く方は、投票する事にメリットが有る人の方が多いからです。
政権が交代するよりも、今まで通り自民党政権の方が都合がいい、そういう人は面倒でも投票に行きます。ですから自民党の得票率は高いのです。勿論、他の政党でも、変わって欲しいと強く願う方はしっかり投票に行きます。
しかし、残り44.07%の国民は、「選挙なんてどうでもいい」「どうせまた自民党が勝つんだから行くだけ面倒」という方が多いのです。
国民の4割以上が投票に行こうとしないようであれば、政権交代などあり得ません。逆に言えば、彼らが全員投票に行けば、政権は交代する可能性があるのです。2009年8月の第45回衆院選では、民主党が政権を奪取しました。しかしながら、公約を果たす事は出来ずにわずか3年で再び自民党に政権を奪い返されてしまいます。
そうした苦い過去もあった事から、国民の多くはますます「やはり自民党に任せておいたほうが良い」という方が多くなり、無党派層は投票権を放棄するようになってしまいました。
ですが、これでは日本が変わる事はあり得ません。政権を取り戻した自民党は「自分達が選ばれたのは国民の意思によるものだ」と勘違いし、それまでと何ら変わらない政治を続けています。
しかしこれは全くの誤りです。多くの国民は自民党を進んで選んだわけではなく、消去法で自民党が残っただけに過ぎないからです。つまり、他の政党に自民党と並ぶ勢力が無いために自民党が勝利しただけの事なのです。
投票に行かずに自民党政権に文句を言っている方々は、どうかまず投票に行ってください。そして自民党以外に少しでも自分の意見に近いと思える政党に票を入れてください。「たった一票入れたところで変わらない」貴方がそう諦めている限り日本は変わらないのです。投票権を放棄している人が皆で投票に行けば、政権は交代する可能性があるのです。「それで自民党以外が政権を握ったとして、またいい加減な政治しか出来なかったらどうするの?」きっとそう思われた方も多い事でしょう。
答えは、「それでも仕方ない」のです。またいい加減な政治しか出来なかったのなら、当然支持率となって見て取れます。そうなったらまた別の政党に投票し、政権を奪わせればいいだけなのです。
重要なのは、「しっかりとした政治が出来なければ、政権を奪われる」という危機感を各政党に植え付ける事なのです。投票は国民に出来る、政治家への唯一確実な物言いです。与党がいい加減な政治をしていると思うなら別の政党へ投票し新しい与党を生む。そうする事で「いい加減な政治をしていたら与党の座を追われる、だからしっかりとした政治をしよう」と政治家達を引き締める事が出来るのです。
政権がころころ変わるのは、一見好ましく思えないでしょうが、政権が長期に及べばそこには必ず驕りや腐敗が生じます。「この政党には国を任せられない」そう思ったのならば必ず投票に行き、政権交代を狙いましょう。その結果がまた「駄目な政権」だったとしても、それは「よりよい政治を求めるための痛み」だと言えるでしょう。
権利は主張しなければ得られない
私はこのページの他にも、「安楽死の法制化を目指して」というページを作成し、ツイッターによる広報活動を行っています。目的はタイトル通り、日本に安楽死制度を導入する事です。
詳しくはそちらのページをご覧いただければ幸いですが、安楽死制度にはデメリットよりもメリットの方が多く、人間に与えられるべき究極の選択権とも言えます。
ツイッターを含め、インターネット上には安楽死を望む声が多数見受けられます。にもかかわらず、何故日本ではいつまでたっても安楽死が法制化されないどころか、国会での議題にすら上がらないのでしょうか?
それは、「国民が自分達の権利を主張しないから」です。
インターネット上の安楽死に関する声は、「早く安楽死」「誰か安楽死作って」などのように完全な独り言や他人任せの声がほとんどです。
法律を決める国会議員達が庶民のインターネット上の声に目を止める事などまず無いでしょうし、仮にあったとしても素通りでしょう。
はっきりと言います。「政治家が自分達から国民に新しい権利を与える事など絶対にありえません」。何故なら政治家にとって、「国民は国家を存続させる奴隷に過ぎない」からです。すでに安定した国家というシステムが出来上がっている以上、わざわざ新しい権利を国民に与えて国民の発言力を増すような行為を取る事はありません。ましてやそれが、安楽死の権利などというデリケートな内容のものであればなおさらです。一歩間違えれば、自分達の支持者を失う恐れがありますから。
こうした政治家達の重い腰を動かすためには、ただ嘆願するのではなく、強引に力でねじ伏せるつもりで挑む必要があるでしょう。すなわち、「安楽死する権利が無いのは違憲だ」と国に対して訴訟を起こし、司法によってその違憲性を認めさせる事です。
権利が無い事に違憲性を認めさせる事が出来れば、国民に対し新しい権利を与える必要が出てきます。これは安楽死に限った事ではありません。同性婚や夫婦別姓などの権利も、無理やりにでもこのように「権利を寄越せ」と国に迫る必要があるのです。
時代も国も問わず、庶民の権利とはこのように「自ら主張して勝ち取っていく物」なのです。決して「上から与えられる物」ではありません。
そのために私は活動をしていますが、いまだ国と戦えるほどの味方はおりません。それどころか、自分達では何もしていない人間にいわれのない頓珍漢な批判を受ける事もしばしばです。
「出る杭は打たれる」そんな諺があるように、日本では他人と違う事をする人間は批判を受けやすく、右へ倣えの社会性が強く根付いています。
しかし、それでは日本が変わる事は永遠にありえません。本気で日本を変えたければ、そのために主張をする必要があります。そして、主張をしていくためには、まず「自己主張する事が出来ない」「自己主張する人間を排除しようとする」という、日本人の人間性から変えていく必要があるのではないでしょうか。