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ページ製作者について

 まずは当ページをご覧いただいた事に感謝いたします。ページをご覧いただいた皆様への礼儀として、僭越ながら自己紹介をさせていただきます。
 40代男性、独身、無職、精神障害手帳2級(てんかん及び統合失調症)、閉鎖病棟への入院経験あり

 私が自殺願望を抱くようになったのは、20代前半からでした。テレビを見れば政治家の汚職、アイドルが馬鹿をやっているだけでもてはやされるくだらないクイズ番組ばかりが目につき、政治家の二世や可愛く生まれついただけの女性はそれだけで一般人とは違う特権階級にある事が不愉快でたまらず、真面目に生きる気力を失っていました。

 「死にたい、けれど恐ろしくて死ぬ事が出来ない」恥ずかしながらそのような苦悶の日々を過ごしていた私に転機が訪れたのは20代半ばの事でした。
 ある日、目が覚めた時には激しい頭痛で自分がどこに寝ているのかもわからず、そのまま眠り続けました。そしてようやく頭痛が和らぎ、そこが友人の部屋のベッドである事に気が付きました。部屋を出るとそこには友人達がおり、自分が突然初めてのてんかんの発作を起こして倒れた事を知りました。本当に前触れのない出来事でした。

 それから月に一度程度の割合で発作を起こし意識を失うようになり、通院をするようになりました。脳神経外科で脳に関する検査などを受け、実際に開頭し脳の一部を切除する手術も受けています。
 てんかんに関する研究で高名な医師にも診断を受けましたが、投薬以外の処置はされませんでした。

 自殺未遂は今まで何度かあります。
 一度は富士の樹海に潜り込み、首を吊ろうとしましたが、何も考えずに行ったため、木にロープを結ぶ事が出来ずに諦めて帰ってきました。
 ネットで調べたヘリウムガスと睡眠薬による自殺は、ビニール袋からガスが漏れてしまったのでしょうか、普通に袋に頭を入れた状態で目を覚まし失敗に終わりました。
 自宅でてんかんの発作を起こし、目が覚めて頭痛が起きた日には、その頭痛の激しさと吐き気に耐える事が出来ずに、クローゼット上段のノブにロープを結び首を吊って終わりにしようとしましたが、クローゼットのドアが小さな物だったため体重でドアごと外れてしまい家族に気づかれて失敗に終わりました。
 その他にも未遂とすら言えないような行動を取ってしまってしまった事は多々あります。

 ある日、目を覚ますと私は硬いベッドに拘束具で縛り付けられた状態でした。ナースコールを押すと医師が現れ、自分に何があったのかを知らされました。今度はてんかんではなく統合失調症と思われる症状を引き起こし、自宅で暴れ回り、家族に救急車だけでなく警察まで呼ばれるような騒動となっていたとの事です。

 それからしばらくは拘束具を解く事も許されず、拘束具を解かれた後もしばらく部屋には外側から鍵をかけられ、出る事は許されませんでした。スマートフォンや音楽プレイヤーなどは取り上げられ、テレビもない部屋の硬いベッドで横になっているだけの時間は苦痛極まりありませんでした。
 しばらくして精神が安定していると医師の判断が出ると、複数の入院患者がいる広い部屋へ出る事を許されました。病院の外へと通じる廊下への扉は施錠されていましたが、他の患者とコミュニケーションを取る事が出来るだけでも大分気が楽になりました。
 大部屋へ出る事が許されている患者は皆さん、一見して精神障害を抱えているとは全くわかりませんでした。話をしていても健常者と変わらない受け答えをされていましたし、どのような障害をお持ちなのかも察する事は出来ませんでした。私自身も、発作を見ていない他人からは障害者だとわからないはずです。実際に現在通っている理容室の理容師さんは私が障害者である事を知りません。

 家族は着替えなどを持ち頻繁に面会に来てくれました。それからさらに数日すると医師の診断により、一時外出許可を得る事が出来ました。閉鎖病棟から解放され、病院の外への外出です。父とともに近所にある本屋に行き、病院で暇つぶしに読める本を買って帰りました。

 さらに一週間程を閉鎖病棟で過ごし、医師の診断を受け退院を許可されました。投薬は必要となるため、月一回の通院を条件とする退院です。

 精神障害年金は、中々貰う事が出来ませんでした。目に見えてわかる身体障害と異なり、精神障害での年金は支給の条件が厳しくチェックされるようで、実際に発作が起きているにもかかわらず支給されませんでした。
 ようやく障害年金が支給されたのは、最初に発作を起こした時から数年が経過してからです。

 友人は一人もいなくなりました。かつてはお互いに「親友」と呼び合えていたほどの友人もいましたが、私からの電話には出てくれなくなりました。
 発作さえ起きなければ健常者と変わらないのに、障害者というだけで「生きている価値がない」「殺処分しろ」などといわれのない差別を受ける事に、怒りを感じた事もありましたが、それもいつの間にか、他人を貶める事でしか優越感を得られない人間への哀れみに取って代わりました。

 こうして私は、ほぼ何もする事も無く生きているだけの存在となりました。障害年金を受け取って生きている事については、私も年金を支払って来たのですから当然の権利として引け目は感じてはおりませんが、生きているだけで家族に迷惑をかけないか、それが一番の引け目でした。

 ある時、リビングの壁に穴が開いてました。父に、「何であんなところに穴が開いているのか」と聞くと、「お前が倒れて頭をぶつけたんだ」と答えが返ってきました。私は驚きました。私はそのような記憶など全くなく、普通に立っていて壁を見たら穴が開いていた、ただそれだけだったからです。自分が意識を失った事は当然覚えていませんし、意識を取り戻した時も、自分の中では何事も無かったように意識は繋がっていたからです。
 また、気が付くと背中が痛んでいた事がありました。また意識を失い、ローテーブルの角に背中をぶつけていたようです。次の日私は出かけましたが、背中の痛みは続いていました。帰宅してくしゃみをすると、激痛が走り私はベッドに倒れました。どうやら骨にひびが入っており、くしゃみの衝撃で骨折してしまったようです。
 痛みで起き上がる事は出来ませんでした。近くに携帯電話が無ければ助けを呼ぶ事も出来なかったでしょう。

 そのように意識を失う発作は大体月に一度ほどの頻度で訪れました。外出先で発作を起こし救急車で搬送された事もありました。そうして私は、自宅からほとんど出ずに日々を過ごすようになりました。
 両親は面倒を見てくれますが、もう高齢です。少なくとも私に生きていて欲しいと思っている両親がいる限り、自殺する事は考えまいとしていましたが、日々を無為に過ごしているうちに、また自殺願望が首をもたげてきました。

 そしてある日私は遺書を自宅の机に残し、某県の有名な吊り橋に来ました。そこから飛び降り自殺を図ろうとしたのです。しかし結局また未遂に終わり、パトカーを呼ばれ警察署に連れていかれた後、通院先の病院へ連れていかれ再び閉鎖病棟で一日を過ごしました。

 その後家族に引き渡され、帰宅しましたが、しばらくは気まずい雰囲気が続きました。恐らく本来はこうして心配してくれる家族がいるだけで私は非常に恵まれているのでしょう。ですが、それは私にとって同時に枷と言えなくもありません。そんな家族を裏切っていわゆる無敵の人のような凶行に走ったり、勝手に死ぬ事は出来ないからです。

 障害年金はそんなに大きい額ではないため、無理な使い方は出来ず、私はほぼ毎日を自宅で過ごしています。
 このような「ただ生きているだけ」の日々にどのような意味があるのでしょうか。家族を悲しませたくはない、それは確かにあります。ですが、両親もいずれは亡くなりますし、私ももっと歳をとります。今まで幾度となく話してきた事ですから、両親は私の自殺願望を知っています。

 自殺は、どんな手段でも必ず誰かに迷惑をかけてしまいます。飛び込み自殺は鉄道会社に損害を与え多くの人の時間を奪い、家族に損害賠償が及びます。飛び降り自殺は過去に建物の下にいた人を巻き込むという痛ましい事件も起こしていますし、建物の所有者に物件の価値低下の損害を与えます。首吊り自殺を含め建物の中での自殺であればどのような手段であれ事故物件として、物件の所有者に損害を与えます。また、目撃してしまった人にPTSDを発症させてしまう可能性もあります。そして、どんな手段であっても100%警察に面倒をかける事になります。

 もし日本に安楽死制度があればどうでしょうか。誰だって痛みや苦しみを伴って死ぬよりは、誰にも迷惑をかける事無く安らかに眠るように死にたいはずです。また、死ぬ事が怖くて死ねない人も、安楽死であれば死にたいという人が多いはずです。
 安楽死制度には、デメリットよりもメリットの方が多いと思います。私も、自殺ではなく安楽死という手段があるのならば、家族とよく話し合った上でその手段を選びたいと思っています。

 そのために、私は不必要に余っている時間を「安楽死の法制化」のPRに役立てられないかと思い、ページを作成しました。少しでも賛同してくださる人が集まる事を期待しております。

作成者プロフィール: テキスト
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